東京の臨海地区における作品群                  近所論 (1994年〜 )

デジタルカメラを使いはじめたのは、1994年頃。日記のようにさまざまな場所で撮っていたが、近隣の臨海部でも虫や草などを撮りはじめた。さながらそれは「採集だった。そのうち「ポラロイドピンホール」が面白くなった。デジタルで撮るのもピンホールを撮るのも、同じように自分を包む時間とこの土地に関わる出来事なのだと思えてきた。風景の中のわたし。わたしの中の風景。スナップとして撮っていた80年代の「NEWCOAST」も含め、これらの流れが私の正直な環境なのだと確信した。2004年に虎ノ門にあった「ポラロイドギャラリー」で「近所論」というタイトルで個展を行う。以後、少しづつ「カメラ」を替え、「乳剤」も替え、現在までシリーズとして発表している。左のカメラは現在行方不明だ!



EARLY WORKS (1998) ・ 人口なぎさ100m

気まぐれな作品。6×7ネガカラーによる作品「 NEWCOAST」が一段落し、今度はデジタルカメラを首からぶら下げて「臨海」に向かった。暇をもてあそぶかのように、虫を撮ったり、葉っぱを撮ったのもこの頃である。デシタルカメラの画質などほとんど気にすることなく、植物採集のようにシャッターを押していた。この拾ったものシリーズの「行為」として秀逸だったのが、漂着した100円ライターをかなりの数集めて、その現場である渚のコンクリートに綺麗に並べたこと。一枚写真を撮ったように記憶するが、どこへいったものか。並べたライターにはそれぞれに個性もあり面白かった。みんなが立派な写真の仕事をしている時間に、私は一人で何をやっているのかという思いもあったが、それはとても豊かな時間だった。もう20年ほど前になるのかという感慨がある。


 

NEWCOAST   1987-1994 / 2015          2016年 PGI にて個展 

 

タイプCプリント

インクジェットプリント(coy yon fibre paper  acid-free base)

 

 

 

1985年に「河口の町」という東京の荒川河口周辺のカラーリバーサル(中判)によるスナップショットで第22回太陽賞(平凡社)を受賞した。以後バブルが次第に膨れていくのと歩調を合わせ、住まいと撮影範囲をちょうど川の流れが注がれるところの東京湾岸(江戸川区臨海町)へと移していった。それまでの深川や砂町といった手狭な下町環境とは違い、見透しのいい湾岸の風景はとても新鮮だったこともあり、めずらしくカラーネガを使った。

 

 ちょうど、その何年か前に隣の浦安の埋立地に「東京ディズニーランド」が開園し、湾岸も「ウォーターフロント」と呼ばれ、首都圏ではあちこちで再開発が始まった。もの珍しいこともあり、近隣には多くの人々が集まってきた。それらの風景はまるで、磁石に砂鉄が吸い寄せられるようだったし、アメリカ西海岸あたりの土産物屋で売っていそうな安っぽいイラストポスターの絵柄にも思えた。

 人々は少しぎこちなく、忽然と現れたような埋立地の空間に、自分の身体をどのように馴染ませてよいのか分からないまま、それぞれの居場所を探していたのかもしれない。「近所」にいる私は呑気に「眺め」に徹した。それらは80年代のモノクロ作品「WONDERLAND」と気持の上でよく似ていた。当事者にならないよう、ちょっと知らんぷりして自分の環境をじっくり観察していたようだ。(結果として立派な当事者になっているが。) たぶん、そうしたスタンスが私のささやかな写真術なのだろう。

 それにしても、30年を経てあらためてこれらの写真を見てみると、人々と風景はことさら懐かしいものでなく、切なげでちょっともの哀しい。バブル経済で膨らんだ「他人の夢」と現実との狭間をこんな空間にいることで改めて実感しているように見える。そして知らないうちに「時代」が私の写真に入り込んでいる。

 

 久しぶりに夏の人口なぎさを歩いてみた。  

とりとめのなさは以前と変わらない。やってくる人々もこの時代の申し子のように見える。おまけに「東京湾にカジノを!」という儚い夢もまた膨らんでいる。そうして更新されていく日常とさらに向き合っていくことに気持の揺るぎはない。しかし東京湾岸部も東日本大震災以後、なんらかの構造変化を強いられているはずだ。その深層の環境が見えてこないことに少し苛立ちを覚える。